とことん大事
2013/10/27
国語の問題集には、選りすぐりの文章が収められていて、当然その中には大きな示唆に富むものが多いのです。
今回読んだ教材には、鷲田清一氏の『死なないでいる理由』の一部が課題文として取り上げられていました。著者はその中で、“プライド”について語っています。要点を箇条書きにしてみます。
・プライドとは、自分の存在に価値を感じることのできる心である。
・自分の存在を「値踏み」するとき、ひとはたいてい他者のそれと比較する。
(他人より優れている点、他人にはなく自分にしかできないこと など)
・だが、この比較はほとんどの場合、似た者同士の間の些末で小さな差異にこだわるというだけのことである。中学生が小学2年生と漢字能力の比較をしてもしかたがない。(冗談にしかならない)
・しかしまた、自分と、似たような他人とを比較することで生まれるものもやはりプライドではなく、勝てば自負したり負ければ卑下したりの激しくも空しい揺れでしかない。
・「プライド」とは、誰かにとことん大事にされているという経験から生まれるものなのである。
話はそれますが、高校で進路指導主任を務めていた時にふと不安になったことがあります。
昔の受験は学力のみを問われるものでした。現在でも中学受験がそうですが、合否は入試の点数で決まります。複数回の受験機会を用意している私立中学校もありますが、基本的には一発勝負です。不合格者は「当日のテストで合格点が取れなかった。」という理由だけです。そのテストができたかできなかったかであって、その児童の総合的な評価とは一切何の関係もありません。
一方、大学入試になると大きく状況が異なります。学力で判断されることが大半ですがそれ以外にも、スポーツや特技、高校時代の取り組みや、将来の目標など、さまざまな形で評価を受け、合格をいただくことができます。いわゆる「幅広い分野において活躍できる人材を求める」というもので、受験機会が増えると同時に、生徒個人の様々な特性を評価してもらえるというわけです。
しかしこれを裏返せば、不合格者は評価可能なあらゆる面において何度やっても合格者たちに及ばないというレッテルを貼られることになりはしないでしょうか。不合格になった生徒たちは「運が悪かった」くらいにしか感じていないようなのが救いではありますが…。
勉強なんかできたって、(とは大昔から言われている言葉ですが、)と同時に、スポーツができたって、特技があったって、高校生活が充実していたって、将来に大きな夢があったって、「自分の存在の価値」には何の関係もありません。一人一人が間違いなく‘大事’な存在なのです。
だけどやっぱり子供たちは気にします。自分の存在の価値を見失うこともあります。誰にでも長所があります。でも、実績として評価されなければ納得できない。「真面目ないい子」だけでは納得できない。周りを困らせてでも大事にされている実感を持ちたい。昨今の小学校でよくあることのようですが、先生がたが多く気に掛ける児童は問題を起こす児童のようです。その結果、いわゆる「真面目でいい子」は‘大事’にされている実感を持つことができないでいるようなのです。
だからこそ伝えたいのです、君たちや私たちが「存在する価値」はそんなところにはないのだと。
学力やスポーツ、または合格実績を上げることが無意味だというつもりはありません。(そんなことしたらこの塾の存在意義をも失います。) ただそれは、児童・生徒を大事にすることとは次元の違う問題なのです。
そして問うのです。私たち全ての当たり前の教育者が全ての児童・生徒をどれほど大事に感じているか、そしてそのことを生徒たちに「経験」としてとことん感じてもらうに、何が必要なのかと。
もう一度見つめなおしたいと思います。