法事で考えたこと
2014/03/30
曾祖母と祖父と祖母の法事があり、出席してきました。久しぶりに叔父や叔母と会い、従兄とは近況を語り合い、それなりに意義のある一日ではありました。 が、あのお経を聞いている時間は実に辛い。最近は椅子に座って法事を行うケースも多いと聞きましたが、我が家では実家に集まり全員が正座で、意味の全く分からないお経をただかしこまって聞くこと約1時間、休憩が入ってさらに半時間の正座。
この頃は私も年を取ったせいか、それほど腹も立たなくなりましたが、若いころは事の理不尽さに癇癪を起しそうにもなったものです。長々と続くお経に足の間隔もマヒして、一心に早く終われと祈るだけの時間。和尚さんの手元のお経本の、残りのページがなくなり、やっと終わるかと思った瞬間に、そのお経本がひっくり返り残りのページがもう一冊分増えた(イメージできるかな)あの瞬間、足に感覚が残っていれば立ち上がって吠えてたんじゃないかしら。
ともかく、せめてもう少しわかる言葉でやってもらえないものだろうか。
そんな思いもあり、法事をする意義に全く懐疑的だったのです。だけど今日の法事で曾祖母の50回忌だと聞いてふとあることを思い出しました。五木寛之の『大河の一滴』の中にこんな一節があります。
―人間が生まれてくるのに十カ月かかるのならば、
死んでいくにもやっぱり十カ月ぐらいかかるのではないかな―
内臓や呼吸器官が徐々に蝕まれ・・・ という意味ではもちろんありません。さらに引用します
―人間はただ肉体として生きるだけでなく記憶の中にも、
そして人間関係の中にも生きている。その人間の死が
完成するまでにやっぱり十カ月や一年はかかるのじゃないか。ー
今日、50回忌と聞き、曾祖母の「死」はまだ完成していないのだと感じたのです。もっと言えば、法事とはその「死」の完成を拒否する行事なのかもしれません。その「死」は完成してはいけないのだから・・と。
曾祖母を知るものすべてが一人残らず彼女の後に続き、その門出に立ったときにやっと曾祖母の死は完成するのでしょう。
法事はこれをしっかり繋いでいくことを確認することで、私自身を含め、これから後に続く者たちが安心して「死を始める」ことができるようになる、そういうものなのかもしれませんね。
その目的はともかく、もう少しわかる言葉でやってもらえないものだろうか。