りりしさ
2018/03/20
「やさしさ」と「りりしさ」の覇権争いの中で、新しい時代の幕が上がろうとしています。数学者でエッセイストであった森毅氏が著書「まちがったっていいじゃないか」でこの言葉を紹介しています。
「やさしさ」とは、周囲の考え方を推し測りそこからなるべくはみ出さないように生活するということ。現状を肯定し、変化に不安を抱く考え方であり、保守的というか、我慢強いというか、日本の伝統的な考え方と言ってもいいのかもしれません。
一方「りりしさ」とは、そんな「やさしさ」の中での閉塞感に風穴を開けようとする行動と言えばいいのかな。Me Too 運動、貴乃花親方の奮闘、トランプ大統領を選んだアメリカ。日本の「忖度」というものはそれこそ「やさしさ」文化の代表的なものなのかもしれません。
これまで周囲の反応を気にするあまり、声を上げることができなかった人たちが行動を開始しています。従来のような、お互いが我慢することで平穏を維持していこうという考え方から、行動こそが本当の平和を支えるのだという考え方に変わってきた、というかSNSの発達がそれを可能にしたのかもしれません。そしてこの「りりしさ」は人々を魅了し、賛同者を増やします。森氏の言葉を借りれば、「ファシストは、澄んだ瞳で現れる」のだそうです。
まさか Me Too 運動に反対するとか、忖度を肯定するなんて気持ちはありませんし、価値観の多様化が止まらない現代社会で、ファシズムが復活するとも考えていません。ただ、現状に変化を求める価値観が一方的に正義となってしまうと、今後何の哲学も持たない、変化のための変化までもが正義を語りだしたりはしないかと危惧しているのです。
激動の時代のなかで、古き良きものを残す努力が大切なのは言うまでもありません。しかし古い因習は変えていかなければ進歩がない。もちろんその通りです。でも、だからこそ、その古い因習が一顧もされずに捨て去られてしまうとしたら、私はその点に少なからぬ不安を感じるのです。変化は必要です。でもそこは大げさに見えるほどの慎重さも必要なのではないだろうかと思うのです。福島第一原発事故はそんな教訓にもなりはしないでしょうか。