六弊
2018/03/25
新しい学年が始まります。Shin塾も11回目の春を迎えます。なんとか曲がりなりにもここまで命脈を保ってこられましたのも、偏に生徒の皆さんの頑張りと、保護者の皆様のご理解があってこそと、改めて感謝申し上げます。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
さて私自身のことです。この10年で、教職を生業として20年が経ちますが、教師としてどれだけ成長できているのだろうかと、かなり懐疑的に不安を秘めつつ何とかだましだまし生きてきています。そこへ先日、例によって「論語」の全訳をぺらぺらとめくっていた時に恐るべき言葉を発見いたしました。「的外れ[愚]、ワガママ[蕩]、自己チュー[賊]、融通が利かない[絞]、乱暴[乱]、無鉄砲[狂]」、『六弊』と呼ぶのだそうです。う~ん、かなり痛い。そしてこれらはそれぞれ『六(つの善)言』、「仁・知・信・直・勇・剛」が「学び」によって正しくコントロールされない場合に陥る結果だそうです。
であれば、今後「学び」を重ねることでこれら『六弊』を『六言』に矯正することも可能なはずです。まだ希望はあります。でも、いったい何を学べばいいのでしょう。英語や数学でしょうか。たくさんの本を読んだり、音楽を聴いたりということでしょうか。講演会に参加して見聞を広めることも必要でしょうか。いずれにしても学問がないと節度がなくなり、やりすぎてしまう。節度を保ちやりすぎないこと。それがつまり「学がある」ということだそうです。
もう一つ、「可もなく不可もなし」。
これはふつう「特によくもないが、かといって悪くもない」くらいの意味で使われていますが、この全訳本によれば、それは本来の意味とは少しずれているようです。本来は「何かを、それで良いとか悪いとか決めてしまうことをしない」。といった意味のようです。
先ほど「学問」が大切だ、と書きました。が、それをそうだと言い切る覚悟は私には無かったりします。ではやはり人にとって大切なのは学問以外の何かか、と問われれば、いやそこはそうとも言い切れない。実に煮え切りません。だから結局のところ、目の前にある日常の些事を一つ一つ大切にしながら、それでも視線は行くべき方向をあれこれ模索しながら、往ったり来たりして進んでいくことこそが「学び」の本質だということでどうでしょうか。
これから始まる次の10年のスタートにあたりまして、その決意を述べるつもりで書きはじめたのですが、なんだか言い訳じみた内容になってしまいました。