We Are Others
2019/08/27
日本と韓国との関係がややこしいことになっています。しかしここは政治的な是非を述べる場ではないのでその詳しい内容には触れません。ただ終戦から75年が経とうとしている現在、お互い一度しっかり我をぶつけ合うのはいいことではないかとも思うのです。そこからしか真の友情は生まれないと考えるからです。(こういう意見は危険かもしれません。なぜならこれは「絶対に戦争にはならない」という前提の上の意見なのですから。)
さて国際関係もそうですが、私たち個人と個人の関係についてもそろそろ見直す時代なのではないでしょうか。日本人はともするとその場の雰囲気を第一に考え、自分の意見を抑える。新しい意見は「和を乱す」という理由だけで検討もしない。さらにはたとえ議論が始まってもすぐに言葉尻を取り合った感情論になってしまい、建設的な話し合いにならないことだってよくあります。議論に慣れていないのです。お互いの違いをお互いが我慢して、その違いに触れないように生活を送ることが最も重要視されているように見えるのです。誰もが周囲と同質であることにあまりにも神経質になりすぎている。それが日本のコミュニティーの姿として私には映るのです。
そろそろそんな風潮を否定してみませんか。お互いの違いをしっかりと認識し、その違いを有効に活用することこそが変化を、そして進歩を生むのだと意識を変えていませんか。そのためには自身の違いについてしっかりと表現できる論理的な思考力とわずかな差異を正確に表現できる言語力が必要となります。また相手の言葉に現れない思いをくみ取る洞察力も必要でしょう。
私たち一人一人は同じではないし、同じである必要はありません。波乱を恐れ「何事もなく」ばかりを大切にしているのではこれからの時代に取り残されるのは必至です。ただ簡単ではありません。そのお互いの違いをしっかりと主張し、理解しあい認め合うためのコミュニケーションは、時として激しいものになるでしょう。そしてその主張する姿勢は単に独善的な態度としか受け止めてもらえないかもしれません。コミュニティー全体が変わらなければならないのです。たとえばどこのコミュニティーにも自分のことしか考えていない人は何人かいるはずです。その場合その人を頭から否定してしまうのではなく、コミュニティーがその人の主張をうまくくみ取る能力を備えることで社会は変わるのだと思うのです。その人に合わせるのではありません。その人の考え方をまず全面的に受け入れ、問題点とメリットを洗い出し、デメリットの責任分担をしっかり取り決める。などの方法もあるでしょう。
忘れないでください。私たちは同じじゃない。英語ではこんなふうに言います。
We are others.